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烏有洞+

なんでもない日々となんでもないこと。

大阪#73 天正二年銘磨崖仏 @ 茨木市上音羽

20210516nose (14)
こんばんは。今日もやります摩崖仏。今日お届けするのは、茨木市上音羽にある天正二年銘磨崖仏です。場所は茨木市のかなり北部にあたる場所ですぐに能勢方面に抜けますよ、という場所です。山間の田畑、人家の裏側ですのでなかなか行きにくいところではあります。

幅約6m、高さ2mほどの自然石を削りとったところに28体の立像を上下2段に刻まれていて、光背が浮き彫りにされた2体の阿弥陀立像も見られます。甲戌天正二年十一月十五日の刻名があり、逆修仏と考えられています。逆修というのはこの時代に流行した祈りの形で、「生前に自分の死後の供養を行うこと」ですね。死後に極楽浄土へ往生することを願って行う作善だったのです。現世が厳しく、死後の極楽での望みを託して刻んだのでしょうか。

この摩崖仏が刻まれた天正二年の頃のこのあたりの地政はといいますと、前年に室町幕府が滅び、織田信長が勢力を一挙に伸ばしていた時期です。信長は永禄11年(1568年)に摂津に侵攻、三好長逸は細川昭元を連れて阿波国へ逃れています。三好の敗戦とともに信長が芥川山城入城、摂津三守護の和田惟政を城主に据えています。翌永禄12年の三好三人衆による本圀寺の変を和田惟政が退け、惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照(高山右近の父)に芥川山城を預けることになります。しかし、この和田惟政も元亀2年(1571年)に白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に敗れています。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだのですが、高山友照・重友(右近)父子が、元亀4年(1573年)に惟長を追放し自らが高槻城主となっています。この摩崖仏が刻まれた頃のこのあたりの情勢は目まぐるしく変わっています。

殿様たちは国盗りをやっているのですからヒロイズムのど真ん中にいるかもしれませんが、巻き込まれる民はたまったものじゃありません。いつ襲われるかもわからない中で年一回の稲作を続けていたことを考えると、そりゃ極楽を信じたくもなるものじゃないかな、と思ったりします。


20210516nose (13)
訪れたのは、5月16日、周りでは田植えが終わったばかり。まだ小さな稲の間をサギが餌を探していました。


20210516nose (39)
私はというと、山を下りて川西の方に抜け帰りにショッピングモールでなんちゃって讃岐うどんを頂いて帰りましたとさ。



↓前回の大阪ネタ↓
大阪#72 大阪産菊菜で炒め物
http://euyudo.blog29.fc2.com/blog-entry-2076.html

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Category : 近畿
Posted by TORU on  | 2 comments  0 trackback

2 Comments

さえき奎(けい) says...""
今晩は。
いつもありがとうございます。
茨木市の摩崖仏、初めて知りました。

>「生前に自分の死後の供養を行うこと」ですね。

なるほど。
形式は違えど、同様の思想は世界中にありますよね。
2021.05.24 23:05 | URL | #zjDuAsyg [edit]
TORU says..."さえき奎(けい)様"
さえき奎(けい)様
摩崖仏も探すといろいろありますね。このあたりのエリアは高山右近が領主をしていた時期があることから、隠れキリシタンの里でもあったようです。
2021.05.25 06:50 | URL | #- [edit]

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